>  > 小田桐ゆうきの異色キャリアを紐解く

『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー

「プロデューサーで聴くという文化がもっと根付いてほしい」小田桐ゆうきが目指す“筋の通った”作家とは?

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 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、EXILE TAKAHIROやDEEP、倖田來未などの歌い手やChu-Z、東京女子流、Jumpin'といったアイドル・グループまで、幅広く楽曲を提供しているコンポーザー・小田桐ゆうきのインタビュー記事を公開した。

 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。卓球選手として中学~高校時代を過ごし、その後HIPHOPダンサー、ボーカルダンスユニットと様々な経歴を積んだうえでデビューを果たしたという異色のキャリアを持つ小田桐について、その歴史を紐解きながら、特徴的なメロディの根源を辿っていった。

「これ好きだなと思うものに、少しブラックミュージックの要素が入っていることが多かった」

――小田桐さんが音楽を始めたきっかけは?

小田桐:8〜9歳離れた兄が2人いたので、音楽的には早熟でした。小学生のときには米米CLUBやマイケル・ジャクソン、久保田利伸さん、風見しんごさんを聴いていたし、『Such A Funky Thang!』を聴きながら部屋で歌い踊っていました。

――挙げていただいたアーティストは、いずれもダンサーシンガーソングライターであり、マイケル以外に関してはジャパニーズR&Bの旗手ですね。

小田桐:何気なく、これ好きだなと思うものに、少しブラックミュージックの要素が入っていることが多かったです。その感覚は、いま作っている音楽にもつながっていると思います。この頃から“歌と踊りは一緒”という考え方があったんですよね。そこには歌番組の影響などもあるのかもしれません。あと、当時は女子にモテたいという気持ちで、ムーンウォークやハンドウェーブ、バックスピンなどを練習していました。

――作り手というよりパフォーマーとして先に目覚めたのですね。

小田桐:はい。それで、家族にはそういう道に進みたいと早くから言っていたのですが、青森の片田舎だったこともあり、強く反対されて。子供のころからやっていた卓球をずっと続けるしかないのかな、と思っていました。当時は『ダンス甲子園』によってダンスシーンも盛り上がっていたのですが、卓球の方で中学生時代に、『全国中学校卓球大会』の団体部門で優勝して、なおさらレールから外れられなくなって(笑)。その後も高校、大学とスポーツ推薦で進み、ダンスは自分の部屋でやっているだけでした。でも、大学生になって今後の自分を考えた時に、やりたいことは卓球よりもダンスだったんです。そこからは駅前にラジカセを毎日持っていって、ダンスの練習をしていました。

――この段階でもまだ一人で踊っている状態ですよね。人前で表現をすることになったきっかけはなんでしょう?

小田桐:大学に入ってすぐ、新しくできた友人にクラブへ連れて行ってもらったとき、今まで人前で踊ったことの無かった僕が、初めてダンスを披露したんです。すると「お前は一体何者だ」と言われるくらいウケて。その快感が忘れられなかったというのがきっかけです。

――上京したのも作家としてではなくダンサーとしてなんですね。

小田桐:大学を卒業したときに上京したのですが、その直前にTRFさんのバックダンサーをやらせていただいたり、コンテストでも賞を貰ったりしていました。でも、僕自身は“歌って踊る”ことがやりたくて、親の反対を押し切って上京したんです。今でいう三浦大知くんのような「歌も踊りも一流」というパフォーマーになりたかったので、25歳までの数年間は、ダンスのスキルを磨く期間に充てました。そして25歳の時に『DANCE DELIGHT』で3位に入ったことをきっかけに、音楽を始めるモードに入ったんです。

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