アイドルと性をめぐる3つの論点とは? 香月孝史がタブーに切り込む

 また、そうした表現物が「性」にまつわる観点からどのように評価を受けるかも一様ではない。AKB48の代表曲の一つ「ヘビーローテーション」は、蜷川実花によるアートディレクションが“男性の視線”から離れてランジェリーをファッショナブルに着こなすものとして“女性同士”の視点で肯定的に表象される(米澤泉『「女子」の誕生』: 勁草書房)一方、秋元康にインタビューしたCNNのTV番組『Talk Asia』(2012年1月)では、「ヘビーローテーション」の同一のビジュアルが「性的搾取」という文脈で俎上に載せられた。もっとも、この時CNNが問題にしていたのは、それを上演する主体が未成年であることだった。つまり、「未成年に性的な記号をまとわせること」のリスクという、また別の水準のデリケートな論点がここでは問題となる。芸能における未成年の性的なリスクもまた、「アイドル」というジャンルにのみ限ることではないが、アイドルの場合、小学生や中学生段階から活動が始まることも多いため、そうしたリスクは近いところにあるだろう。

 先に示した芸能者のアウトプットに伴われる「性的な視線」全般と、次に示した年齢的に性的な記号をまとわせることが適切かという論点とは、アイドルというジャンルの中で重なりあいながらも水準が異なり、その問題性の有無にはそれぞれ個別の議論も必要になる。そしてまた、これら二者とはもうひとつ違う水準に「恋愛禁止」という「抑圧」は存在している。いま便宜的に三つの水準に分けたが、これらのうちで「恋愛禁止」だけは、アイドルというジャンル内のみに限定された、いわばローカルルール的なものである。さらにいえば、他の二つに比べて「抑圧」を取りのぞく操作――恋愛禁止の解除――が理屈の上ではもっとも容易なものでもある。

 「恋愛禁止」が必要だとする声がしばしばその理由とするのは、アイドルが「疑似恋愛」「性を商品化しているもの」だから、という“事実”による説明だった。たとえば、「恋愛禁止」を解くことについて、「ではアイドルが恋人との親密な関係を公言してはばからない場合、そのアイドルをファンは支持するのか」といったような反論は、一見、ある説得力をもっている。けれども、そこには飛躍がある。「恋愛禁止」とは“恋愛をしない”ことの強制だが、「恋愛禁止」を解くことは“恋愛すること”の強制でもなければ、まして「自身の恋愛を公言すること」の強制でもない。アイドルが「恋愛」に対するスタンスをどのように見せ(あるいは隠し)、アイドルとしてのアイデンティティをどのように位置づけるか、その戦略的な判断を個々人に帰するということにすぎない。それぞれのセルフプロデュースやパーソナリティの発露がアイドルシーンの重要な争点になって久しい今日、そのような個々の戦略には相応のグラデーションが生じるはずだ。さらにいえば、前回の稿でも触れたが、「恋愛禁止」という以前からの風潮に一方で身を委ねながら、他方ではその風潮に杓子定規に従うことなく内側から段階的に骨抜きにしつつ、それでもなお支持を保ってきたのがAKB48という存在ではなかったか。その歩みもまた周到なものではないし、指原莉乃や峯岸みなみら「スキャンダル」に見舞われたメンバーたちの、事後的な立ち回りの巧さによって偶発的にもたらされた結果ではあっただろう。けれども、その歩みが明らかにしたのは、アイドルがパーソナルな場での恋愛をにおわせることが、即座にファンから支持されない理由にはならないという今日の環境だ。そうであるならば、「性の商品化」や「疑似恋愛」にアイドルというジャンルを局限させる必要はない。

 「恋愛禁止」という「代償」をもってでなければアイドルというエンターテインメントの魅力が保たれないという発想は、ある意味でこのジャンルの可能性を低く見積もってしまうことでもある。もちろん、恋愛を禁じるという「風潮」が定着してから、AKB48が(なかば偶発的に)その風潮を一部骨抜きにするまでにも相応の時間はかかっている。すぐに結論を出すことを求めたいわけではない。けれども、あやうさについて考えるのをやめないことは、将来的により気兼ねなくこのジャンルの面白さを享受するための準備でもある。社会からの拒否反応があらわになる瞬間は、その視点を省みるための貴重な契機だ。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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